大阪市内には、歴史上有名な「真田幸村」に関係する場所があること、ご存じでしたか??
大阪冬の陣では、鉄壁の大阪城で弱点を見抜き自ら布陣し、敵陣を食い止めた「真田丸(大阪城の南側)」や、夏の陣で布陣した土地「茶臼山(天王寺付近)」。一体どんな土地だったのでしょうか??
また、幸村は夏の陣でも不利な豊臣側へ付き、敵陣の徳川家康を後少しのところまで追い込んだと言われています。
では、歴史を読み解きゆかりの地へ訪れてみましょう。
おすすめコース紹介
ゆかりの地
①三光神社ー大阪城への抜道があったとされる場所。
②真田丸跡地ー大阪明星学園のグランドが跡地。(真田丸顕彰碑、陣立図あり)
③心眼寺ー三日月形の偃月城(別名、真田丸)を築いたとされる石碑があります。
④茶臼山ー大阪夏の陣で、幸村が布陣した場所。
⑤安居神社ー真田幸村の終焉の地
ランニング10kmの場合
大阪城公園を起点に天王寺方面(南側)に走ります。
大阪城公園→①三光神社→②真田丸跡地、③心眼寺→てんしば(天王寺)→④茶臼山→⑤安居神社→大阪城公園
電車の場合
JR 玉造駅→三光神社→真田丸跡地、心眼寺
JR 天王寺駅→てんしば→茶臼山→安居神社
真田幸村とは!?
・名ー「真田幸村(真田信繁)」
(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)
・父ー「真田昌幸」(さなだまさゆき)の次男
・出身ー信濃(しなの:現在の長野県)の豪族
・武田家の家臣
・1567年~1615年 享年49歳
・武器は「十文字槍」
真田幸村の過去を知る
0~15歳 武田軍
武田信玄率いる武田軍に仕え、上杉や北条などの有能な武将と何度も戦を交え、1573年武田信玄が病死。
武田信玄亡き後、織田信長に攻められて武田家が滅亡。
15~19歳 織田軍
幸村の父・真田昌幸は、武田家を滅ぼした織田信長の配下に入りますが、織田信長も本能寺の変でまもなく死去。
19~21歳 上杉軍
織田信長亡き後、真田家は上杉軍に仕えることとなり、そのとき幸村は人質の扱いを受ける。
21~34歳 豊臣軍
次に真田家は豊臣軍に仕えることとなり、またもや幸村は人質として大阪城へ。
しかし、今回は豊臣秀吉に気に入られ官職に昇進。
まもなくして、豊臣秀吉が死去。その後、幸村は石田三成率いる、関ヶ原の戦い(1600年)に豊臣軍として出陣するも徳川家康に敗北し、九度山(和歌山)へ追放される。
34~48歳 九度山
16人の家来とともに、九度山で生活を行っていました。
この家来こそが、真田十勇士のモデルと言われています。
幸村45歳(1611年)にして、父・真田昌幸が死去。
徳川家と豊臣家の関係が悪化し、豊臣秀吉の子・秀頼は幸村に助けを求める文を出し、幸村は大阪城へ参上する。
48~49歳 豊臣軍
【1614年、大阪冬の陣】
豊臣軍10万に対し、徳川軍20万の戦いで幸村は豊臣軍に仕え、大坂城三の丸南側の弱点箇所だと、自ら「真田丸」を建設し布陣した。
敵陣も弱点箇所を狙うため、出陣するも真田丸に阻まれ足止め、真田幸村の軍勢は徳川軍の大軍を手玉に取った。
周囲を堀で囲まれた難攻不落の要塞「大阪城」の鉄壁な守りで、徳川軍は力攻めでは勝てないと和睦の申し立てを行った。
豊臣軍も真田丸以外の場所では不利な状態であったため、和睦条件の大坂城の外堀を埋め立てることを承諾した。
一時休戦とし、外堀の埋め立てられるとともに真田丸も埋め立てられた。
【1615年、大阪夏の陣】
豊臣軍5万に対し、徳川軍15万で始まったが、豊臣秀吉自慢の大坂城の堀はすべて埋められ、本陣は丸裸で圧倒的に不利な状態でした。
そんな中でも、茶臼山に布陣した真田幸村は、真っ正面から家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行。家康本陣まで後一歩のところまで追いつめましたが敗北。
徳川家康も、勇猛果敢だった真田幸村を「日ノ本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と称えました。
【ご利益】ー健康成就、病気平癒、学業成就、金運。
真田幸村の終焉の地であり、境内には真田幸村が力尽きたと伝わる松の木「さなだ松」が、本殿すぐ横にある「真田幸村公之像」と「真田幸村戦死跡之碑」が祀られています。
まとめ
このように、ランニングなど運動をしながら歴史を学ぶことで、楽しいマラニックや街RUNをすることが出来ます。
ランニングはスピード練習や、インターバルといった辛いメニューが多いですが、気晴らしに練習メニューの1つとして参考にして見てください。
引き続き、楽しく走れるコースを探してお届けしますのでよろしくお願いいたします。
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